-Birth of the assassin in the dark





ぱらぱらと笠を打つ渇いた音に顔をあげれば、折しも重く垂れ込めた雲から雨が降り出そうというところだった。
ごろごろと唸りをあげる空の獣にちっと舌打ちをする。
(一雨来そうだな、先を急がねば)
本降りになる前に、ここからならば一刻も掛かるまい――勢い良く駆け出そうとして、ふと、その足が止まった。


ここから、……どこへ?


俺は何処へ行こうとしていた?


頭の中で記憶を手繰ろうとも、おかしい、その手が空しく空を掻く。
仕方がなくふう、と息を吐くとくるりとその場で踵を返した。
(これでは任務にならない、一度戻ろう)
しかし、その足が踏み出されることは、無く。


(俺は、何処へ帰る?)


辿っても辿っても、どうして何も思い出せない、記憶の楔を打ち付けようにも思考は砂山のようにさらさら崩れ去っていく。
まるで妖しの術でも使われたようだ、
ああ成る程、己が忍であることに関しては知覚しているのだなと妙に冷静な判断を下していると、
不意にざざっと前の繁みが揺れた。
考えるよりも先に体が動く。
跳び退った地面にがっと苦無が突き刺さった、と思う間に背後に気配を感じ、咄嗟に引き抜いた背負い刀で、
振り降ろされた一撃を鋭い金属音と共に何とか受け流す。
再び地面に降り立つと、直ぐ様ざっと体勢を整えた。
こちらを睨め付ける相手は一人。さっきの一太刀で分かる、腕は相当立つようだが、どこぞに雇われた刺客か。
恐らく記憶の空白は奴がもたらしたものだろう。面妖な術を使うとは……面白い、返り討ちにしてくれる。
今度はこちらから仕掛けるべく得物を構え直すと、勇んで地面を蹴った。
だが刀を振り翳すその目の前で突然、影が二つに割れた。

左右に飛んだ影に目を奪われ、疎かになった胸元を鋭い衝撃が襲う。
斬られた、と気付いたのは斜めに裂かれた白装束から滲み出る赤いものがぼたりと地面に垂れ落ちてからだった。
間髪開けずに攻撃を繰り出してくる影に翻弄されるばかりで、交わそうにも反応が追い付かない。
(こいつら、ただの忍じゃない――!)
今更そう悟ったところで何になる、眼前に迫った刃を寸でのところで受け止める、錯乱した脳裏を不意に。
声が過ぎった。


『――だから、絶対戻って来いよ』


この声は知っている、己のものと寸分違わぬその声音、けれどもこれは――


思考を覆っていた霧が一瞬、ふっと晴れた。


徐に手にしていた刀をざっと地面に突き刺すと、両手で素早く印を組む。
次の瞬間、大気を切り裂く雷光が辺りを走り抜けた。
宙を駆ける二つの影を紫の閃光が貫く。
そしてそのまま地に落ち倒れ伏すと思われた、それらの影が目の前ですうっと霞んで掻き消えた。


(まさか、影分身だと?)


馬鹿な、あれ程の分身を作り動かせるような忍など居る筈がない。
しかし現にこうして影は消え失せて、そう、失念していたのだ。
分身ということは、必ず本体がいるということを。
揺蕩う影の名残を打ち破るように、不意に飛び出してきた黒装束の忍に対し、ましてや手負いの今、もはや為す術は無かった。
「しまっ……!」
後ろに倒れ込んだ己の喉元を忍の構えた刀が捉える、だがその寸前でぴたりと、切っ先が止められた。
目の前に立ちはだかる忍の顔は鉢で覆われその表情こそ伺えないが、突き付けられた刃からは殺気が消えており。
戸惑い見上げる視線を断ち切るように忍はふいと顔を背けると、刀を返して鞘に収めた。
「来い童、傷の手当てをしてやる」
温かみの欠片もない声音で告げられ、ついに混乱は極みに達した。


「あなたは一体――俺は、一体」
誰なんだ。



消え入るような声で洩らされた呟きに、踵を返していた忍がちらりと視線を向けた。


「お前は、“小太郎”」


そうして与えられる、無情ないらえ。


「俺の全てを継承する者。過去など、必要無い」


後継者は過去を消去される。
それがこの一族の為来りなのだと。
相州乱破を統べる者、この、風魔小太郎の。


いつの間にか降り出した雨と共に淀みのないその言葉は身体の奥へと染み渡り、白く濁った記憶を静かに洗い流していった。
ただ一つの鮮やかに輝く断片を残して。




「ああそっか!」
己と同じ顔を綻ばせ、やけに明るい声でぽんと手を打つ。
「迷子になって戻れないかもってことだろ?」
「……」
仮にも忍の己に向かって何を言うかと呆れつつ、眉を顰めてじっと睨む視線の先でそれは鳶色の髪を揺らし、くるりと背を向けた。
「大袈裟だなあ、居なくなるなんて…」
笑いを含む、いつもと同じ軽い調子で吐かれた言葉、その最後が微かに震えたことにはっとする。
「あ……」
「ま、心配いらないから!」
だが思わず肩に伸ばした手を遮るように、突然声を張り上げると、びし、と山の方を指差して。
「そん時は一番高い木の上から思いっきり大声で呼んでやるからさ」
その名も忘れた己の弟は、どこか泣き出しそうな不恰好な笑顔を浮かべて言った。

「だから――絶対戻ってこいよ」




その記憶が一体いつのものだったのか、既に遠き日のことなのか、それともほんの昨日のことだったのか、
それすらも最早定かではないけれど、もうそこへ帰ることは無いということだけは分かっていたから。


“もしあの童に会うことがあらば伝えよう。
お前の兄はもこの世には居ない、だから――もう待つな、と。“



ある時ふと思い出したようにそう言った師に、小太郎は黙って頷いた。