-The vassal who is more than enough to the lord.




天下に名高き、難攻不落の小田原城。
己が農民であった頃は門に近寄ることすら出来なかったであろう場所、後はあれさえ征すれば。
「……天下は我のものだ」

はためく赤い三つ鱗紋を笠懸山にて見下ろしながら、秀吉は呟いた。
「秀吉、そろそろ行こう。北条の手の者に気付かれる」
横に立つ半兵衛に促され、秀吉はふんと鼻を鳴らすとくるりと踵を返した。
さっさと歩き出す秀吉の後に従いながら、半兵衛はもう一度ちらりと、うっそうと繁る木々の向こうの
小田原城を振り返る。
「陣を敷くならやはりここだろうね。折角だから一夜城なんてのもいいかもしれないな、
相手の戦意を挫けるだろうし――…に、しても」
半兵衛はやれやれといった風情で頭を振った。
「どうせなら智将と謳われた氏康殿と戦ってみたかったね」
「物足りないか」
「これで天下が決まるという一戦だ、北条氏政には少々荷が勝ち過ぎると思わないかい?」
「将の愚を補って余りある駒もある」
「ああ、三河の本多忠勝とか」
くすくす笑いながら問うと、秀吉はいいや、と首を振った。
「北条には伝説の忍とやらがいると聞く」
その言葉に、半兵衛は一瞬驚いたように目を見開いた。
「へえ、君が乱破なんかを気にするなんてね。まあ確かに、『風魔は乱破の大将也』だなんて言われても
いるけれど、それでも飽くまであれは草だ。戦場において、我らが手を下すような相手ではないよ」
「そうか、ではお前は手を出すなよ」
「え?」
聞き返す間もなく、目の前を行く秀吉が突如歩みを止めたと同時だった、
頭上で凄まじい剣戟の音が炸裂し、半兵衛は思わず後ろに飛び退った。
「秀吉!」
空から降ってきた一撃を片手の籠手で受け止めた勢いのまま、秀吉がぶんと腕を振り払った先の山道で
遅れることわずか、黒装束の忍が音も無く地面に降り立つのを半兵衛は目にした。
両手に大振りの手裏剣、頭から鉢金を被るその姿はまさしく、
「風魔! くそっ、見つかったか!」
ちっと舌打ちをして、半兵衛は腰の刀に手をかけた。
その途端、鋭い声が飛んだ。
「手を出すな、半兵衛!」
「秀吉……?」
「言った筈だ、手を出すなと」
「だが――」
反論しかけて、しかし半兵衛は目にした秀吉の表情に口を閉ざした。
なんだ、秀吉は楽しんでいるのだ、この忍と刃を交えるのを。
それならば、その楽しみを奪うのは不粋というもの。
ふっと半兵衛は笑うと、刀を鞘に戻した。
「分かった。それじゃ、僕は先に行って待っているよ」
「そう待たせはせぬ」
秀吉がそういうならばきっとそうなのだろう、半兵衛は無言で頷くと、静かにその場を後にした。





「――さて、半兵衛を黙って行かせたということは、最初から狙いは我か」
「……」
答えるかわりに風魔は、ざ、と得物を構え直す。
「よかろう、この豊臣秀吉が相手をしてやろう。――久々だ、少しは楽しませてみせろ」
ごきりと指を鳴らし、秀吉も腕を掲げると風魔に向かって身構えた。
頭蓋も砕く恐るべき握力を誇る秀吉の手に捕まることは、即ち死を意味する。
かといって遠距離攻撃で致命傷を負わせられるような相手でないことも重々承知。
小太郎は徐に得物を収めると、胸の前で手を組み印を結んだ。
その像がぶれた、と思うやいなや、辺りに幾重もの影が現れる。
「フン、分身の術か。小賢しい真似を……」
秀吉は四方から一斉に襲い掛かる影をぎろりと睨み上げると、
「幻影ごときで我を倒せると思うな!」
と吠えた。
びりびりと覇気が空気を震わす、それだけで幾つか分身が掻き消える。
それでも間髪置かず次々と切り掛かってくる影を素手で薙ぎ倒しながら、
秀吉は素早く辺りに目を走らせた。
(本体はどこだ。どこから来る!)
そうして何度目かの頭上からの攻撃を両腕で叩き返した、その時。
足元にわだかまっていた己の影がにわかに盛り上がったかと思うと、そこから現れた風魔が苦無を手にし、
懐に飛び込んできた。
最初からこの隙を狙っていたのだろう、上を見上げていた秀吉が晒した首だけを迷わず狙って、
風魔は勢いのまま、下から思い切り苦無を突き立てた。
響き渡ったのは、――金属音。
風魔の顔をざっと彩ったのは赤い返り血の色ではなく、恐らく驚愕のそれだった。
秀吉はその常人離れした首の筋力で、咄嗟に引いた顎下の顔当てと胸の帷子で苦無の刃を挟み止めたのだ。
あと十分の一寸程で喉を抉る筈だった苦無が、進みも退きも出来ずあたかも苦しげにかちかちと震えていた。
苦無から手を離すよりも先に、身を引こうとした風魔は手首を秀吉に掴まれそのまま頭上高く引きずりあげられた。
「終わりか?」
だが掴んだ腕の筋肉がぐっと締まるのが伝わり、あろうことか風魔は手首を捕らわれたことを逆手に取り、
それを支点に身体を持ち上げ蹴りを入れてくるつもりなのだと、瞬時に悟った秀吉はもう片手で風魔の胸倉を掴み、
その身体を近くの大木に目一杯叩き付けた。
「……ッ」
幹が折れんばかりの凄まじい衝撃を背に受け、流石の風魔も微かに呻き声を上げるとがくりと肩を落とす。
力を失った忍の腕と顎を鷲掴んで、今度こそ軽々とその身体を持ち上げた秀吉はふむ、と嘆息した。
「さて、どうするか。このまま首を折ってもいいが――」

それは、本当に気紛れだった。
すでにみしりと顎の骨を砕かんばかりに力を込めていた手に、ふと触れた鉢金の紐の結び目。
逡巡は一瞬、顎を捕らえていた指を紐にかけ、力任せに引きちぎると、秀吉はそのまま鉢金を掴んで
地面に投げ捨てた。
伝説の忍と呼ばれる男がどんな顔をしているのか、如何な表情で死んでいくのかその刹那に、
ただ興味があった。
それだけだったのだ。
それなのに、その素顔を見た者には死あるのみとすら言われるその男が、恐らく風魔の名を得てから
初めて人目に曝したであろう表情は、無体に対する怒りも死への絶望も何もなく、ただ突然の悪戯に
虚を突かれたような、無垢な子供のあどけなさすら感じさせるもので、秀吉は思わず息を呑んだ。
胸を突かれたと言うべきか。


これが、相州乱破を統べる長の正体だと?
恐らく尋常ではない修羅場をくぐってきたはずなのに、何故今尚こんな目を出来る、
こんな透明な、透明過ぎて全てを見透かすような、目を。


不意に身体を掴まれる力が緩み、風魔はどさりとその場に崩れ落ちた。
急激に気管に酸素を吸い込み、げほげほと噎せる風魔に構わず、秀吉は腕を伸ばして落ちていた鉢金を拾い上げる。
はっとして手で顔を覆いつつ振り仰ぐ風魔を静かに見下ろす、秀吉の表情は逆光で伺うことが出来なかった。
「貴様に興味が湧いた」
「……」
「あのような暗愚な主に仕え続ける義理もなかろう。我と共に来い」
言葉を飾らぬ誘い文句に、風魔は再びあのきょとんとした表情を浮かべ、しかしすぐにはっきりと首を横に振った。
「従わぬなら今ここで、その首圧し折るとしてもか」
全くの躊躇もなく、今度は縦に首を振る。
これはやっかいなものを見付けてしまった、秀吉はそう思い、そして――笑った。
北条への忠誠心か、忍の理か、どんな鎖がこの忍の魂を縛りつけているのか己には全く理解し難いが、
その魂に傷を付けずにこれを手に入れるには、その寄り処を完膚無きまでに叩き潰すしかないようだ。
鳴かぬなら、鳴かせてみせようなんとやら。
さあて、どう鳴かせてくれようか。
「これは返しておく」
ぽいと鉢金を投げ返すと、秀吉はあっさりと風魔に背を向けた。
そのままじゃりじゃりと小石を踏みしだきながら、後ろを顧みることもなく去っていく。
「今暫くその身、北条に預け置こう。だが、」
じゃり。足音が一瞬止んだ。

「次にその鉢を脱いだ時、前に立つ主は我ぞ」




「お帰り、秀吉……殺さなかったのかい?」
戻ってきた秀吉から血の臭いがしないことに、半兵衛は眉を顰めた。
いで立ちを見るに大した傷もなく、決して敗北したわけではないはずなのだが。
秀吉が、己に刃を向けた相手を生かして帰したと?
一体どうして――そんな思案に暮れていると、
「半兵衛」
秀吉が名前を呼んだ。
「半兵衛、小田原を獲るぞ」
「え? ああ。分かっているよ?」
「速やかにだ。知と財を尽くし、可能な限りの膨大かつ強大な軍勢を使って、完全に無欠なる勝利を得るのだ。
我は小田原が、――あれが欲しい」
どうして今更、改めてそのようなことを、そんな熱を帯びた風に言うのだろう。
秀吉の言う”あれ”とは小田原、引いては天下のことなのだろう、が。
――それとも、別の何かを指しているのだろうか。
そんな疑問が一瞬脳裏を掠めたけれども、いや、そんなことはどうでもいい、ただ君がそれを望むなら。
半兵衛は綺麗な笑顔を浮かべて答えた。

「分かったよ。そうしよう、秀吉」