- Who draws close.
神社の境内にぱん、と響く柏手の音も心なしか凛々しく。
すっと背筋を伸ばし、両手を合わせる姿はまるでいっぱしの侍だ。
真田の和子よ、立派になられた。
一心に祈りを捧げていた幸村はやがてふっと目を開けると、小さく嘆息した。
「……やはり、姿を現わしては下さらんか……」
今日こそはもしや、と思ったのだ。弁丸という幼子の名を捨て、真田源次郎幸村として
初めての参拝となった今日ならば、お狐さまもきっと姿を見せてくれるだろうと。
だが境内を彷徨う目が捉えるのは、幾重にも立ち並び古びた朱塗りの鳥居と、
木立の下に蹲る何体もの狐の石像のみ。
お狐さまが夢に現れるようになってからすっかり通い慣れた稲荷神社も、これからは
そうは来られなくなるだろう。その前に、きちんとお礼が言いたかったのだが――……。
泣き疲れて眠ってしまい、それでもまだ足りぬと夢の中で泣き続けていた、とある幼き日の夜。
「何泣いてんの」
突然掛けられた声は酷く不躾な口調で、仮にも大名の子息である自分にその様な物言いを
する者など誰もいなかったにも関わらず、不思議と弁丸はそれを自然に受け止めた。
「母上が、弁丸のことを要らぬ、と、言って……」
「あーそっか、弁丸様は妾腹だもんね、そりゃ腹を痛めた長男よりは疎ましいだろうなあ。
皆も庇い辛いだろうし」
他の者が聞いたらぎょっと目を見開きそうなことをさらりと口にして、
声の主は膝を抱えた弁丸の前に腰を落とすと、さらに続けた。
「で? 弁丸様はどうすんの? 泣いて逃げて、それで終わり?」
わざと厳しい言葉で煽るようにすると、弁丸は一瞬きっと目の前を睨みつけ、
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔をぐいと袖で拭い、再び声の主を見据えて言った。
「弁丸は武士の子だ、逃げたりなどせぬ!」
幼いながらも揺らがない強い瞳。思わずひゅう、と口を鳴らす。
成程これが真田の和子か――面白い。
「そうそう、このご時世、誰しもが何かと戦って、それに勝たなきゃならないんだからさ。
戦って、天下を獲りなよ。俺も一緒に戦ってやるからさ」
温かい手でよしよしと頭を撫でられ、弁丸はぱっと顔を明るくした。
「本当か? 其方は、其方……名は、何という?」
「俺? 俺は稲荷の――」
ぱち、とそこで目が覚めた。
それはきっと、とお付きの者が教えてくれたお狐さまは、それから度々夢に現れた。
行き詰まり、挫けそうになった夜は決まってふわりと弁丸の頭を撫で、話を聞いてくれる。
その言葉は心に刻まれ、その柔らかな感触も確かに頭に残っているというのに、
どういうわけか目が覚めるとお狐さまの名前も姿も、綺麗に記憶から消え去って、どうしても
思い出すことが出来なかった。
埋もれてしまったその記憶を無理やり掘り起こそうとして、ようやく思い出せるのは
鮮やかな、茜。
直に目にすればきっと心を奪われるであろう、そんな色だった。
改めて一礼し踵を返して去っていく幸村を、佐助は社の屋根上から胡坐を掻いて見つめていた。
「じゃあ、俺も行くかな」
うーんと首を巡らせて立ち上がった佐助を小さな声が取り囲む。
さすけ、さすけ。ほんとうにいってしまうの。
さびしいよ。いかないで。
姿は見えぬとも、豊かな尻尾をぎゅうと掴んで離さない儚い声達を、佐助は困ったように
笑っていなした。
「別に消えるわけじゃなし、ほんのちょっと、瞬きする程の間、人の世に紛れてくるだけだよ。
それに約束しちゃったからさ。一緒に戦ってやる、って」
そう言って佐助はくるりと回ると姿を変えた。沈んだ黄赤色の髪こそそのままだが、幾重にも分かれた
白銀の尾も柔らかな毛に覆われた獣の耳も姿を消し、代わりに身に纏うは草色の忍の装束。
約束してしまった、共に在ると。
神に列なるものとして、それを違えるわけにはいかない、でもそれより何より。
傍に在りたいと思ったのだ。
あの日、じっと見据えられたその瞳で、この和子の目にするであろう世界を、その傍で共に見てみたい、と。
「さて、いざ忍び参りますか」
巻き起こった旋風と共に、社の上から佐助の姿が掻き消えた。
ほんの気まぐれに立ち寄った鳥居峠にて幸村が出会ったのは、
夕日に溶け込むような色の髪を持つ忍だった。
「良い腕だな。お主、名は? どうだ、某と共に来ぬか!」
そう言うとその忍は、んーと小首を傾げたあと、仰せのままに、と笑顔を浮かべた。
「俺は佐助。猿飛佐助。以後良しなに、旦那」
■改変原案: 『 佐助稲荷神社 』