-Voice to cause death



数日降り続いていた雨が生臭く立ち籠め、足元で踏み締めた草葉がぐしゅりと鳴る。
重く垂れ込める雲の下、道とも言えないような山道に小太郎は居た。
前を行く男が掻き分ける枝葉が時折跳ねるのを避けながら、無言でその背に続く。
突然小田原城へ登城する、とその男――風魔が言った。
小太郎はそれに黙って頷いただけだった。


それから一昼夜。
一度も口を開くことの無いまま今に致る。
いや、最後に真っ当に言葉を口にしたのは何時だったろうか、ふと思い返してみる。
ああ確か十日前だったか、甲斐の山中で武田の下人を斬った時だ。
先だって行商を装い屋敷を訪れた際には、今度遣いでお館様に御目通りが適うのだと、
未だにきびの痕を残したあどけない顔を緩ませていた。
事切れる寸前、自分の顔を認めた下人は一瞬目を見開いて、どうして、と呟いた。


だから答えた、任務だ、と。
それが一番最近口にした言葉だった。


風魔に習うようになって既に数年が経っていた。
過去の記憶を無くし、技量も風魔の頭領を継ぐ者としてはお粗末限りなかった初めの頃こそ、
膨大な知識や技を吸収すべく言葉を交わすことも多かったが、元来隠密とも呼ばれる者、
気配を絶つが生業なれば、自然口数が減っていくのも道理であった。
――本当に、ただ、それだけのことだ。
市井に紛れて情報を集め、それを有効に活用する。
同郷だの弟の面影がだの偽りの言葉を並べ立てて懐柔し、
年端もいかぬ下人から引き出した言葉に不穏な動きを読み取り、降された命に従い刃をその小童に振り下ろす。
生き馬の目を抉る戦国の世に於いては、至極当然のことだ。


己の言葉は死を呼ぶと、厭うことなどあるわけがない。


次第に寡言になっていく自分に、しかし風魔は何も言わなかった。
――当て擦りだと思われているだろうか。
こちらから彼に話し掛けることなどまず無く、
そういえば昔彼を何と呼べばいいか分からず
訊ねたところ、好きに呼べと言われ、
では師匠と、
と答えたそれを結局一度も呼ばずじまいだったなと、
空ろに考えていた小太郎の頬を、ぽつ、と水滴が打った。

と、思う間もなくたちまちざあざあと、重い雨水が土砂の如く降り注いでくる。
「急ぐぞ」
返事を待たずして目前の風魔の姿が煙る雨に消えた。
だが小太郎はすぐに後を追おうとはしなかった。
氏政様に謁見するこそ初めてだが、小田原には何度も出向いたことがある。
既に風魔一党の者達とは、幾度か共に任務もこなしていた。
山を下れば麓に北条の警備兵が駐屯しているのも知っているし、
一頻り雨にこの陰鬱な気分を洗い流してもらった後で追い付けばいい、そう思ったのだ。
額に貼り付く前髪を手で掻き揚げると、小太郎は空を仰いで暫く其の場に立ち尽していた。






幾刻ばかり経っただろうか。
雨も段々と小降りになり、流石に体を冷やしたのかぶるっと身震いを覚え
小太郎は頭を振って水気を払うと、そろそろ出向くか、と足を踏み出した。
すっかり泥濘んだ地面にじゃり、と爪先が埋まる。
その足が。
突然地から生えた手に、がし、と掴まれた。
影潜の術かと思う間もない、体勢を崩し倒れ込みそうになった小太郎の懐に、
泥中から飛び出した忍の拳が叩き込まれる。
鎖帷子など物ともしない容赦無い一撃に撥ね飛ばされ、小太郎は受身を取ることも出来ず、
傍の木の幹に強かに背を打ち付けた。
「――が、っ……!」
息が詰まり、背を丸めて地面に蹲る小太郎を、あっという間に忍の群れが取り囲む。
その数、十人は下らず。
「次の風魔の頭領だというから手練を揃えて出向いてみれば、何だ、こんなものか」
目前に差した影がそうせせら笑った。
「北条の御膝元だからと油断したか? 代替わりの前に潰しておこうと思ったが、
これは放っておいてもいずれ風魔一党は、自滅してくれよう。や、もしやその方が我らには楽か?」
嘲り笑う忍を、咳込みながらぎっと睨み上げる。

「――武田の、透破が……っ!」
得物を手にゆらりと立ち上がると、ざっと周りの一団が身構えた。
「おお怖い。……さて、お遊びはこれくらいにして。――死んでもらう」
ざわり、と空気が変わる。次の瞬間、透破達が一斉に小太郎に襲い掛った。
必死に攻撃を受け止め得物を振るうが、先程受けた痛手は思いのほか色濃く、
負う傷は一方的に増えていく。
これではじわじわと嬲り殺しにあうようなものだ、そう思ってふと、
小太郎は自分で言葉にした意味にぞっとした。


嬲り殺し――殺される。俺が、死ぬ?
ぞわりと背中が総毛立つ感触、死ぬ、死んでしまう、こんなところで、一人で。


右腕をざくりと透破の刀が抉り、ばっと血飛沫が辺りに散ばる。


嫌だ、死ぬのは嫌だ。
今までの己の所業など頭からかなぐり捨てて、心の中で吠え叫ぶ。
己を殺す為に強くなる、そう教え込まれてきたし、常に死地に出向くつもりで任務にも当たっていた。
今になって思い知った、それでも本当に死ぬということを、
結局のところ己は真剣に考えたことなど無かったのだ。


腿の裏を苦無で切られ、堪らず膝を付く。


胸の奥底から恐怖がぐうっとせぐり上げ、吐き気を覚えながら小太郎は悟った。
ああそうか、それはそんなものを、あの人と共にいる限り、考える必要が無かったからだ。
何も言ってくれず、――何も言わずに居てくれた、己の――


「御命、頂戴仕る」
振り仰いだ小太郎の目に、今にも振り降ろされようとする刀がぎらりと閃いた。




「――……師匠っ!」