-The Start of the End of It All


遥か崖の下、抱えられるようにして青い背が山中に姿を消していく。
その様を黙って見届けてから、松永はようやく後ろを振り返った。
「――――さて、では卿の出番だ。筆頭殿が奥州に戻るまで、お見送りして差し上げろ」
音もなく控えていた小太郎の視線を横切るように、松永はゆっくり歩を進めると、無造作に
地面に転がっていた刀を拾い上げた。
潜入していた斥候を捕らえ、それを餌にわざわざ奥州から筆頭とその右目を誘き寄せるのに
費やした手間はこちらとしても尋常ではない。
そこまでして漸く手に入れた六の爪、それを松永は二、三度振ったのち、つまらなそうに
その場に投げ捨てた。
がらん、と空ろな音が耳を打つ。
「やはり茶器に限らず、名器というものは然るべき者が使ってこそ美しいものだな」
そう言うと松永はもはや興は失せたとばかりに、後も振り返らずその場からすたすた
歩き去ってしまう。


やはり最初から目当ては六の爪ではなかったのだろうと、それはこの場のお膳立ての為に
密かに暗躍していた小太郎としても、薄々勘付いていたところではあった。
だがその小太郎をもってしても先程の言葉は解せない、主の命令は絶対故に小太郎は
表情一つ変える素振りも見せはしなかったが、間違いなく奥州を手にすることの出来る
またとない好機に、松永は二人を無事に送り帰せと、そう言ったのだ。
あれ程抜け目無い男が手負いの龍をみすみす見逃すとは、単なる気紛れなのか、それとも
その裏には更なる策謀があるのか――――相変わらず、松永久秀という男は分からない。
初めて対面したときから、この男はそうだった。
邂逅は日も陰りつつある東山道。小田原から程遠い、美濃の山中でだった。
顔を合わせるなり松永はこう言った。


「卿の疑問に二つ、答えよう」


静かに語るその言葉には、確かな自信が漲っている。
知的で冷静な印象を与える面差しが、薄く笑みを刷いた。
「まず一つ目。如何にして卿にここまで来させしめたか」
己の言い分など端から聞く気もない傲慢な有様、しかしその実、松永の言葉は見事に
小太郎の心中を言い当てていた。
今日この場に来るまで、ずっと疑問に思っていたのだ。
もはや知る者は絶えて久しい”風魔小太郎”への依頼の手筈を、どうして知っているのかと。
風魔一党は北条のお抱えではない。
依頼を受け、条件が見合うとなればその都度主は変わる。
だがそれが風魔小太郎、それら精鋭揃いの忍びを束ねる長ともなれば、話は別だ。
元来風魔小太郎に接触を図るには、定められた正当な手順を踏まねばならなかった。
風魔小太郎の首を狙う輩を不用意に近付けない為、そして何より風魔の長を使役するのは
それ相応の礼節を知る格の高い者であるべし、それが風魔小太郎の価値というものであるのだと
戦乱の世に知らしめる意味がそこにはあった。
だが風魔にはもう一つ、厳命すべき掟が存在した。
曰く、己が姿を目にした敵はことごとく滅するべし。
天下を争う為に武将は忍びを使うのだ、主を出し抜き、不当に小太郎を雇わんとすれば、
それは則ち主に仇をなすということ。
風魔に刃を向ける者、礼節を弁えず雇おうとした者達がそうして次々と淘汰され、
やがて北条以外に風魔小太郎と契約を結ぶ手立てを知る者はいなくなり、
結果風魔小太郎は五代に渡り北条に仕えることとなった。
その筈だった、それなのにどうして。


「なあに、答えは簡単だ。前に一度、共に仕事をしたのだよ――風魔小太郎と」

ぴく、と思わず小太郎は肩を震わせた。
松永と仕事をした風魔小太郎……自分にその記憶はない。
と、いうことは。
――――先代の風魔小太郎が松永と契約を交わしたというのか。


先代と過ごした期間は短い。
ましてや会話など、風魔の術の伝達を除けば数える程しかなかった。
己の一切を語らず、完璧なまでに”風魔小太郎”であった、自分の師匠。
あの誇り高い人が、たったひとときと言えどもこの男を、主に仰いだというのか?
小太郎は目の前に立つ松永を、鉢金のなかから静かに睨み据えた。
この乱世で名を挙げるような人間は、他人などどうでも良くて、利己主義で、
戦場で刀を振るわなければただの人間の屑のような輩が多い。
だが、そうまでしなければ、人として必要なものを置き忘れてこなければ、
戦乱の世を生き抜くことはできないのだ。
そのような中でも一際、松永久秀は狡猾、傲慢不遜との悪名を世に轟かせていた。
そんな男に先代は一体何を見たのだろう。
この男と、何を見たのだろう。
我知らず、胸の奥でふつふつと沸き上がるものがある。
血が、滾る。


「そして二つ目。卿との契約だ」
これはもっと簡単なことだ、と松永は前置きして、すっと笑みを消した。
表情を無くした松永は独特の印象を与えた。
笑みを浮かべているときは、まるで好奇心の強い少年のような印象を与えもしたのだが、
今はまるで千年の時を生きてきた男のように見えた。
全ての真理を知り尽くして生に飽いた男のようでもあり、それでも尚あらゆる物事に
執着している男のようでもあり。
どちらにしろ、彼ほどに表情一つで人に与える印象を変える人間を、
そのとき小太郎は初めて目にした。
「世界が完結する、その時まで。卿は私のものだ」
何の、も誰の、もない、酷く不親切な言葉だった、けれどもうそんなものはどうでもよかった、
それで充分だった。


沈みゆく太陽を背に手を差し出した松永の前へ、小太郎は一歩足を踏み出すと、
静かにその場で膝を折り、跪いて頭を垂れた。
小太郎は見たかった。
松永が、この男が、自分を連れて戦って、どんな世界を見せてくれるのかを。
見たかった、闘いたかった。
闘って、共に歩みたかった。
それは密やかな決意にも似て。



つまり小太郎は、その存在に心奪われたのだ。